13.キューバ革命50年の現実

      (米国人ジャーナリストが記録したカストロ政権)


首題のNHK TV放送を見た。

1959年1月1日、バチスタが国外逃亡することによって、カストロによるキューバ革命は成功した。しかし、アメリカがカストロ政権を認めなかったため、カストロはソ連に接近。それが1962年のキューバ危機へとつながって行く。

このTV放送は、1972年から2009年まで、キューバを見てきたアメリカ人ジャーナリスト、ジョン・アルパートによる記録フィルムと、彼へのインタヴューによって構成されていた。



1972年に、彼が慈善団体の一員として始めてキューバを訪問した時は、ソ連の経済支援もあって建設が急ピッチで進められており、国全体に活気があった。キューバ革命も、頂上がようやく見え始め、希望があった。あたかも、今回アメリカ合衆国に黒人大統領オバマが誕生して、多くの人が期待に胸を膨らませているのと同じような雰囲気であった。

               ニュージーランド・クライストチャーチ・エイボン川


1974年に、キューバから取材の許可が下りて再訪問した時、その後35年間にわたって取材を続けることになる人々に出会う:

ボレゴ・ファミリーの4人兄弟(長男 アンヘル 66才、次男 クリストル   64才、三男 グレゴリオ 62才、妹 リロ 50才)がそれで、アルパートは、大の親友になってゆく。


この時、ボレゴ・ファミリーの兄弟たちは、農地改革で私有地の8割を国有化されていた。それでもインタヴューのマイクを向けられると、「国のためになるなら農地改革に賛成です。私たちは農家で、昔から自給自足の生活ですから、食糧事情は前と変わりません」とけなげに応じていた。


町での食糧事情も、配給手帳に記録しながらの分配であったが、皆に不自由なく行き渡っていた。女性はミニスカートを身に付け、それまでは無かった山岳にも病院が建設され、医療費はゼロであった。


1979年10月、カストロは、ニューヨークの国連本部で、発展途上国の窮状を訴える2時間の演説をしている。この時、ジョン・アルパート氏は、多くのアメリカのマスコミ陣の中から一人だけ、カストロの乗る政府専用機に同乗して、取材を許されると言う特別の待遇を受けている。当時のアルパート氏の印象としては、カストロは大変気さくで、会話を楽しんでいるように思えた。

     

ところが、1980年4月、革命から20年経過した時に、6人のキューバ人が亡命を求めてペルー大使館へ駆け込んだ。これをきっかけに10数万人の亡命へと発展した。カストロは、亡命を認める演説を行った。この際、不満分子を一掃しようとの考えであった。


アメリカ合衆国も亡命希望者を受け入れていたのであるが、キューバのマリエル港で取材したアルパート氏のビデオがアメリカで放映された時、亡命者の中には犯罪歴のある人や、精神障害者が含まれていることが明らかになった。

これを知った、合衆国のカーター大統領は、亡命者の入国を禁止した。

それが影響して、アルパート氏のキューバ取材の特権は剥奪されてしまった。


同じ頃の取材によれば、ボレゴ・ファミリーの自宅には、まだ水道も電気も引かれていなかった。牛2頭を持って自給自足の慎ましい生活ではあったが、彼ら兄弟は、亡命には興味が無いと言っていた。


1990年、アルパート氏は、再びキューバへの入国が認められるようになり、取材を再開した。1974年に出会った時、9歳の少女であったカリダットは、今は25歳になり、10歳の息子と8歳の娘との3人で、ハバナ郊外の労働者住宅で元気に暮らしていた。彼女の暮らしぶりには何の不満も無く、16年前よりも豊かになっているように見えた。


1991年:ソビエト連邦の崩壊により、キューバへの経済援助が断ち切られる。

1992年:ハバナの医療機関においては、薬が不足し、ソ連からの原油の輸入が減って、車が使えない状態になっていた。


この時初めて出会った、ルイス・アモーレは失業中で、生活は観光客からの恐喝、窃盗でまかなっていると公言していた。ハバナの電気は一日4時間だけ有効、夜は停電で真っ暗になっていた。


ボレゴ・ファミリーを訪ねて見ると、元気が無かった。「食料難のために大事な牛が盗まれ、農作業が出来なくなった」。また「せっかく育てたトウモロコシも盗まれてしまい、どうすることも出来ない。ひどいものだ」。いつも楽しみにしていた村の酒場に行っても、ラム酒も肉も無い。「何も無いんだ。何もかもうまく行ってない」と途方に暮れていた。


革命の理想とは正反対の現実を突きつけられ、キューバは生き残れるのか、先が全く読めない状態で、存亡の危機に遭遇していた。この頃アメリカは、ソ連の崩壊とそれに伴うキューバの窮乏を楽しんでいたという。

                     NZ・クライストチャーチ・植物園−1


1995年

キューバは経済を建て直す為に、新外資法を制定して観光産業に力を入れ、外貨の獲得を目指す。一方、合衆国は1996年、キューバに対する経済制裁を更に強化した。


2006年

食糧事情は改善されてきたが、富める者と貧しい者、外貨を持つ者と持たない者のとの経済格差が大きくなりつつある。優秀な医師やエンジニアの月給が20ドルに対して、観光客を相手にするタクシーの運転手は、1週間で同額を稼ぐという実情が起こっている。


1992年に出会ったときに失業中であった、ルイス・アモーレは公園の管理人の職を得ていた。月給は約1000円。富裕層向けのドルショップもできたが、そこでジュースを4本買うのに、彼の賃金では15日間働かねばならず、便器を買うには3年分の給料が必要だ。キューバで生きて行くのは困難であるとの理由で、難民申請をしていると言う。


また、16年ぶりにカリダットの住む労働者住宅を訪問。

本人は5年前にメキシコ経由でアメリカのフロリダへ。26歳になる息子と、24歳になる娘に合わせて100ドルを毎月送金してくる。母がアメリカの市民権を取ったら、自分たちもアメリカへ移住したい。生きるためには、国を出たい。出られるならばどこの国でも良いとは兄妹の言葉。


更に、ボレゴ兄弟を訪ねてみた。

末っ子の妹リロ(82歳)が甥と二人で農業を営んでいた。水道と電気が通じていた。男の3兄弟は既に亡くなっていた。享年は、長男96歳、次男94歳、三男 93歳であった。


2008年12月のカリダット宅訪問:

食料は格安で配布されているが十分ではない。足りない分はドルで買っていると言う。兄(28歳)の方は、母のカリダットが合衆国の市民権を取得できたので、アメリカに行く準備をしている。革命50周年には何の関心も無い。


                    NZ・クライストチャーチ・植物園−2


今のキューバ経済は自力ではどうにもならず、外資に頼るしか方法がないようである。どうしてこうなってしまったのであろうか。


前に書いた随筆の中で、「この本源的蓄積が経済学で演じる役割は、原罪が神学で演じる役割とほぼ同じである」(資本論 第1部、第24章、第1節)の文章は引用しているが、もう一度。


つまり、資本主義社会から共産主義社会になるとき、国家は土地や、大企業等の私有財産を「没収」して始まる。つまり、これが共産主義社会における「本源的蓄積」になるわけだ。マルクスは、資本主義社会における本源的蓄積は労働者から「暴力的」に収奪して出来たものであるから、いわば、キリスト教における原罪に等しい。従って、その罪は永遠に消えることは無いという。


しかし、考えてみると共産主義社会が私有財産を国有化する時も、必ずしも平和的に行われているとは言えない。その証拠に、国有化に反対でもしようものなら、たちまち逮捕、投獄、場合によっては国家反逆罪として、死刑になっている。実際、どれだけ多くの人がその犠牲になっているか、想像しただけでも空恐ろしい。これを「暴力的」と言わずにおれようか。多くの人はそれが恐ろしくて、泣く泣く没収に応じている。相手は国家権力である。しかも、「自由と平等」と言う正義の旗を振りかざされては、どう立ち回ろうと勝算は無い。


「自由と平等」と言う大義名分のために、没収した私有財産を有効に機能させて、自由で豊かな平等社会が実現できるならば、私有財産を拠出して共産主義社会における「本源的蓄積」に協力した人々も報われよう。しかし結果は、密告を奨励する網の目が張り巡らされて、言論の自由も無く、しかも貧しさを分かち合う平等を強いられるだけでは、絶望的にならざるを得まい。


考えてみると、共産主義社会を目指したソ連も、中国も同じような経過をたどっている。つまり、革命後、最初の20年ぐらいは活気に満ち、希望にあふれているが、次第に活気がなくなり、希望もなくなって最後は絶望的になってしまう。


これは、革命1世代は情熱を持って建国にまい進するが、2世代目、3世代目となるに従って、革命の情熱が失われ、保守的になり、保身になり、自分の立場や既得権にしがみつくようになってしまうからであろうか。共産主義社会を目指した国の最後は、官僚主義に陥って、血管がつまり、神経がずたずたに切断されて、国家としての支持系統が全く機能しなくなるという状態を一様に晒してきた。


完全に敵対してきたアメリカ合衆国とキューバ。革命から50年を経た今、両国とも指導者が変わった。歩み寄りによる友好関係が築かれて、お互いの国民が自由に出入りできる日が来ることを、ジョン・アルパート同様、希望しておきたい。

 

        NZ・クライストチャーチ・植物園−3


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